2011/11/19

旧第四師団司令部庁舎1 歴史

大阪城天守閣は、昭和6年(1931)に大阪市民の寄付により復興され、
今年、11月7日に80周年を迎えました。
それを記念し、さまざまなイベントが開催されています。

そのひとつに、大阪城天守閣と同じ年に建築された旧第四師団司令部庁舎の
特別公開があります。平成23年11月15日(火)~11月20日(日)

旧第四師団司令部庁舎というより、
天守閣前広場の大きなイチョウの近くに建っている大阪市立博物館だった茶色い建物、
という方が分かりやすいかもしれません。

16日に見学に行ってきたのでそのことを記事にしようと思います。
まず、その前に建った歴史なんぞを。。。 
私の記事は前置きが長い長い^^;


天守閣から見た旧第四師団司令部庁舎。(撮影2010/11/20)


この建物は、様々な運命を経て大阪市立博物館として使われることになります。
しかし、2001年大阪歴史博物館が開館することにともない閉館となりました。
以後、未使用の状態で、今後も未定となっています。

私にとってはイチョウの黄葉が綺麗な時に、背景にちょうどいい程度の存在でした。
(撮影2010/11/18)


正面には、「大阪市立博物館」の文字が残っています。(撮影2011/11/16)




このようなプレートも。


大阪市立博物館の時に、何度か入っているはずなのに、
どういう建物内部だったか、全く記憶に残っていません。
また、この建物は最初から博物館として建てられたものと思っていました^^;

全く分かっていないので、その歴史を調べてみました。
(警察の法律が変わったあたりはややこしいので、間違えていたらご指摘ください。)
1929 昭和4年 陸軍第四師団司令部庁舎 起工
1931 昭和6年 陸軍第四師団司令部庁舎 竣工
1940 昭和15年 (第4師団司令部は大坂城二の丸に移転)
        帝国陸軍の中部軍管区司令部庁舎となる
1945 昭和20年 終戦後、連合国軍による接収
1947 昭和22年 (自治体警察を導入する警察法が制定)
1948 昭和23年 連合国軍による接収解除
        大阪市警察局は本部を移転
1949 昭和24年 大阪市警視庁と改称★
1954 昭和29年 (都道府県による警察の一本化を唱えた「新警察法」が施行)
        大阪市警察本部が置かれた
1955 昭和30年 (大阪市警察も大阪府警察に統合)
        大阪府警察本部の庁舎
1958 昭和33年 大阪府警が現在地の大手前に移転
        大阪市の管理下に置かれた
1960 昭和35年 大阪市立博物館 開館
2001 平成13年 大阪市立博物館 閉館
その後今日までの10年間、使い手がつかず・・・

使用期間でいうと、おおまかにですが、、、
陸軍第四師団司令部庁舎(9年間)
中部軍管区司令部庁舎(5年間)
連合国軍による接収(3年間)
大阪市警察局(1年間)
大阪市警視庁(5年間)
大阪市警察本部(1年間)
大阪府警察本部(3年間)
大阪市の管理下(2年間)
大阪市立博物館(41年間)
未使用(10年間)

★特に、『大阪市警視庁』の本部があったということには驚きました。
大阪に警視庁ですよ!!! 
これについては、毎日新聞社のコラムが面白いです。(こちら


歴史を知ると、大阪城天守閣復興80周年の時に、
旧第四師団司令部庁舎が特別公開されることにとても意味があることがわかりました。

「建築と社会」という雑誌の2010年12月号に、
大阪歴史博物館学芸員の酒井一光氏が書かれている説明を一部引用します。

旧第四師団司令部庁舎 
再読 関西近代建築 -モダンエイジの建築遺産ー
■天守閣とともに誕生
 第四団司令部庁舎(以下、司令部庁舎)が竣工したのは昭和6年。この年に天守閣も復興された。二つの建物は隣あって同時期に誕生した兄弟のような存在である。
 ここで改めて大坂城天守の来歴をふりかえると、豊臣期の天守は天正13年(1585)に竣工し、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で焼失した。その後、徳川期の天守が寛永3年(1626)に復興されるが、これも落雷により寛文5年(1665)に焼失してしまう。長らく大坂城に天守は存在せず、天守台の石垣のみを残したまま明治時代を迎えた。生来、豊臣びいきの気質が強い大阪人にとって、天守復興の気持ちーもちろん豊臣期のそれーが強かったことは想像に難くない。実際に天守復興の機運が起こったのは、大正14年(1925)に開催された大大阪記念博覧会といわれている。このとき、天王寺公園が第一会場、大阪城が第二会場となった。第二会場では、天守台に秀吉をしのぶ豊公館が建てられた。この豊公館が、天守閣復興の機運を一気に高めた

 しかし、当時大阪城一体は第四師団の管轄下であり、天守台は史跡として許可を得れば見学はできたものの、実際に市民が自由に出入りできる天守閣を立てることは困難であった。そこで、敷地内に分散していた、第四師団の建物を集約した司令部庁舎を市民の寄付金で建て、代わりに天守閣復興と大阪城の一部を公園として整備する計画に結実した。交渉過程は本論では省くが、こうして天守閣と司令部庁舎が、ともに市民の寄付金によって建てられることになった。

※大大坂記念博覧会の写真は、大阪市立図書館HPにありました。(こちら
豊公館も載っています。

当時大阪城一体を管轄していた「第四師団」とは?
明治新政府の軍用基地となった大坂城跡は、はじめ大阪鎮台と呼ばれ、明治18年に第四師団と改められました。この体制が昭和20年の敗戦まで続いたのであるが、その間、城内にはレンガ造りの軍用施設が建ち並び、周辺には東北部の砲兵工廠をはじめ各種の軍需工場が建てられていった。(「なにわ今昔」より)



軍の施設・工場に囲まれた天守台に、天守閣を建てるとなると、
観光客からそれらが丸見えになってしまいます。


軍としては、断固反対したい天守閣建設がどうして実現したのでしょう???

 昭和3年2月、大阪市の大礼記念事業(昭和天皇の即位記念事業)として、「豊公盛時の威容を示す大天守の復興を市民の手で」という計画が関市長から発表、市会で全会一致決議されることとなった。
 当時としては全く奇想天外な企画であったが、広範な大阪市民の熱烈な賛同を得て、資金集めが同年8月より開始されるやわれもわれもと寄付の申し出が相次ぎ、半年ほどの間に目標の150万円が満額達成された。最高25万円から最低10銭にいたるまで実に78250余件もの寄付が寄せられたという。
(中略)
 不景気のドン底、わが国が戦争の泥沼へとのめり込んでゆこうとしていた重苦しい時代の中で、昭和の天守閣復興事業は、人びとに楽しい夢を与えたのであろう。
 大礼記念事業という”錦の御旗”があったからこそ、軍事基地のド真中に、軍の施設の一部を取り払って、市民のための天守閣をつくり、そこを全国、全世界の観光客に公開しようなどという計画が実現した・・・(略)
(「なにわ今昔」より引用)


これが天守閣と司令部庁舎が建ったその当時(昭和7年)の写真。(「なにわ今昔」より)
大阪城は軍用地のため、全容の知れる写真は掲載不許可だったそうです。
今だからこそ、どかんと掲載!



大阪城って、昔から緑豊かな森に囲まれていた・・・と思い込んでいました(-"-;A

それに、天守閣を建てるために、
条件としてあの茶色い建物(第四師団司令部庁舎)も建てなければならなかったなんて(-"-;A
それも、市民の寄付金を使って(-"-;A

(-"-;A

そうだったのか・・・ は続きます。

※「写真集 なにわ今昔」(毎日新聞社発行)

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