2011/05/10

枚方宿へ1 鍵屋

枚方というと、遊園地「ひらかたパーク」(略して「ひらぱー」)くらいにしか行ったことがないのですが、
いつもおじゃましているkens7aさんのブログを拝見していると、
なにやら町家が残っていたりと面白そうな感じ・・・

ということで行ってきました!
昨日書いたように自転車で行ったのですが、
これは、なじみ深い大川、桜を見に行った旧毛馬閘門、
その大元の淀川の流れを感じながら枚方に着きたかったのです。

江戸時代、京都伏見と大坂(八軒家・淀屋橋・東横堀・道頓堀)を結ぶ三十石船。
その船が行き来する淀川に沿って、ということです(o^-')b
(写真↓の大きい船)


枚方宿は東海道の宿駅であり、街道に沿って流れる淀川の川港でもありました。
枚方付近を通る三十石船などに、餅・汁・酒などを商っていた小舟「くらわんか舟」が有名です。
(写真↑の小さい舟)

「餅くらわんか」 「ごんぼ汁くらわんか」
などと言い食べ物を売りにきたことから「くわらんか舟」という名前がついたそうです。


まずは、江戸時代、三十石船の船待ち宿として栄えた「鍵屋」に行きました。
明治以降は料亭として平成9年まで営業していましたが、枚方市が移譲を受け、
発掘解体調査ののち平成13年に「市立枚方宿鍵屋資料館」として開館しました。

主屋は、文化8年(1811)の姿に復元されています。


ここで残念なこと!
復元前の姿では入口に防火用水槽が置かれていたのに、
(私の手が写り込んで見にくいのですが・・・)
今はプラスチックのプランターなのです。残してほしかった(w_-;



でも、旧東海道(京街道)沿いの商家の構造を残した貴重な建物であることに変わりありません。

「起(むく)り屋根」 


中も見ごたえがあります。
トオリニワ(通り庭)


GW中に「大阪くらしの今昔館」に行って町家の説明を詳しく聞いたので、
その復習にもなりました。

摺(す)り揚げ戸




煙出し(けむりだし)


この煙出しの下には、竈があります。


その上は、大小の梁桁(はりげた)が組まれた高い吹き抜け「火袋(ひぶくろ)」になっています。



江戸時代は、主屋(右の建物)のすぐ前が船着き場だったようです。
大洪水が起こり、防波堤の位置がどんどん遠くなり、
昭和3年には、別棟(左の建物)が建築されました。



別棟の一階は、現在資料館になっています。


「写真撮影はご遠慮ください」の注意書きがありますが、
ストロボなしの撮影を許可頂いたのでたくさん写真を撮らせていただきました。


2階の63畳の大広間。


今では、淀川の流れはかなり遠くになりました。



鍵屋の鍵マークがいろいろなところにありました。洒落てますね~♪










「鍵屋」だけでも、はるばる来た甲斐があったわ~♪という感じで嬉しくなりました。
つづく


【追記1】
随分前の記事で、実際のライオンが日本に渡来したのはいつか?という記事(こちら)を書いたことがあります。当時のことがあまりわからず残念だったのですが、鍵屋資料館には、享保13年(1728)年に徳川吉宗が今のベトナムから注文した像が、長崎に入港し、70日かけて歩いて江戸まで連れて行った資料が展示されていました。さぞかし大変だったことでしょうね。


【追記2】
発掘された泥面子(どろめんこ)というものの展示がありました。
最初お守りみたいなものかと思ったのですが、帰ってから調べると紙の面子と同じ玩具でびっくりしました。
『直径3cm、厚さ3,4mmほどの面型に粘土を詰め、素焼きにして製造する。江戸時代、享保年間に登場、発祥地は大坂であり、そこから各地に普及し、幕末に流行、各地でその郷土色を反映した泥面子が作られた。江戸では浅草周辺で製造された。形状や表面の模様にも様々なデザインが凝らされた。文字や紋章などが型抜きされ、種類は2000種以上にも及ぶ。明治時代に入ると、紙や鉛製の面子が登場、普及するようになり、泥面子は俄然姿を消すようになった。今では青森県弘前市などで僅かに製造されるのみとなっている。(Wikipediaより)』


【追記3】
幻のビール「カブトビール」。
復刻版が出ているようなので飲んでみたい!!!(こちら


【追記4】
枚方市のマンホールは、市の花「菊」と「くらわんか舟」が組み合わされていました。

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