2011/04/07

明治時代の毛馬の閘門・洗堰に咲く桜

ずっとずっと前から桜の季節になったら行こうと思っていたのに、
いつも桜の季節になると忘れてしまって(^▽^;)

今年やっと行けました。
ここは、桜の季節に行くのが一番いいです! 素晴らしいです!! 超オススメです!!!
と思うのは、明治の煉瓦造りの建築物が好きな人に限るかもしれませんが(゚ー゚;

毛馬閘門(けまこうもん)・洗堰(あらいぜき)・淀川改修紀功碑
北区長柄東3丁目3 (地下鉄谷町線「天神橋6丁目」駅徒歩15分)
私は、自転車でしか行ったことがありません。。。


◆毛馬第一閘門(けまだいいちこうもん) 1907(明治40)年完成
閘門とは、水位の高低差がある河川で船を安全に通過させるための施設です。


 淀川は古くから京都と大阪を結ぶ交通の要でした。特に江戸時代には舟運が活発化し、物資や人々を乗せた様々な舟が、にぎやかに往来していました。
 淀川は、当時の人々にとって重要な交通路でしたが、たびたび氾濫して大きな被害をもたらしていました。
 明治時代初頭には、洪水によって流れ込む土砂が大阪湾に堆積して港としての機能を低下させ淀川の舟運にも支障をきたすようになっていました。そのため大阪湾に流れ込んでいた淀川を支流である中津川の方へ付け替えて、皆とに土砂がたまらないようにする計画が立てられました。しかし、この工事には膨大な費用がかかるため、なかなか実現しませんでしたが、1885(明治18)年の大洪水を契機として、今度は大阪のまちを守るために淀川改修への気運が高まり、1896(明治29)年、ようやく淀川改修工事が着工されました。
 毛馬閘門は、付け替えられた新しい淀川と大阪市内へ流れる旧淀川(大川)の間に生じた水位差をコントロールし安全に舟を航行させるための施設としてすくられたものです。(案内板より)


降りていくことができます。


今は見学通路として盛り土がされスロープになっています。


扉と扉の間(閘室)の中に停船する船を安全につなぎとめておく係船環(けいせんかん)があります。


反対側の扉は、ほとんど土に埋められて上部だけが出ています。


この門と門の間の閘室に船が停って、水位を調節し通過させたのです。




これは、何をするものかな?




◆毛馬洗堰(けまあらいぜき)  1910年(明治43年)に完成
洗堰とは、水量の調節などを目的とした堰のことです。
10門あった水通しは、現在3門だけ残っています。


 かって淀川は、その下流部で大川・中津川・神崎川の三川に分派し、たびたび起こる洪水により大きな被害を受けてきました。このような水害から私たちの暮らしを守る為、1896年(明治29年)に淀川改良工事が着工されました。その際に毛馬洗堰は大川(旧淀川)への分流施設として計画され、1910年(明治43年)に完成しました。
 毛馬洗堰はその後長きにわたって大川への水量調節を行ってきましたが、1974年(昭和49年)の新毛馬水門完成によりその役割を終えました。




 毛馬洗堰と毛馬第一閘門を含む淀川旧分流施設は、淀川改良工事の代表的遺構として近代史上価値が高く、また、用いられた工法や技術がわが国の大規模河川構造物の規範を示すものとして、2008年(平成20年)6月に重要文化財に指定されました。(案内板より)


桜は水辺に向かって枝を伸ばすので、おそらく洗堰が現役の時からあったのでしょう。



◆淀川改修紀功碑
 淀川の洪水は古代からたびたびくり返され、そのつど大きな被害をうけていた。なかでも明治18年の氾濫は、ようやく近代的発展をとげようとする大阪とその周辺に、甚大な被害をもたらした。そのため淀川改修工事が急がれ、明治29年測量に着手、途中、日露戦争をはさみながらの困難な事業も同42年完了した。碑面には、その間の経緯を詳しく刻している。明治43年(1910年)に淀川改修工事完了を記念して建てられた。





◆眼鏡橋
 かって、この橋の下には長柄運河が流れていました。長柄運河は新淀川をつくるために出る土砂を海老江まではお昆布ために1902(明治35)年に完成したのもで、今は埋め立てられています。眼鏡橋は長柄運河の仮橋が老朽化したため1914(大正3)年に架けられました。現在の眼鏡橋の高欄は1980(昭和55)年に補修され、当時のデザインそのままに付け替えられたものです。






◆毛馬北向地蔵
淀川改修紀功碑の裏に、このような祠があります。


毛馬北向地蔵のいわれ
このお地蔵さんは三体あり

一体は明治の終り頃旧毛馬洗堰新設工事のときしゅんせつにより大川から発見され、

また一体はその後大正九年頃内務省機械工作所が旧光龍寺(十三付近といわれる)整地のとき掘り出され

さらにもう一体は昭和六年頃戸田彫りの旧内務省大阪土木出張所(現建設省近畿地方建設局)敷地内にあったものを移転しこの地に安置されました。

このお地蔵さんはその昔聖徳太子が佛教を広めるため大阪市天王寺区に今もその名が残る「六万体町」で六万体のお地蔵さんを作らせ全国にそれを安置させられたその内の三体といわれています。

歴史的にも古く淀川を洪水から守っていただくなど霊験あらたかなお地蔵さんで遠くからの参拝者も多く毎年八月二十三日の地蔵盆には御詠歌でお供養しています。
昭和五十六年八月吉日 建立 (説明板より)


ほぉ~、四天王寺の! そりゃすごい!! 
真言も書いてありました。「オンカカカビサンマエイソワカ」 どこで区切るかわかりにくい・・・



地元の人でないとなかなかどういう所に位置するのかかわりにくいですね。

より大きな地図で 毛馬閘門 を表示



鉄橋を走っている電車は、阪急電車(千里線)です。


新淀川の土手の近くにあるのです。


この下は、日蘭交流400周年記念広場になっています。


こういう説明板がありました。

日蘭交流400周年記念広場
この地は、明治時代のオランダ人技術者デ・レイケの提案「洪水路ハ三つ頭(毛馬)ノ地ヨリ今狭隘ナル中津川ヲ経テ海二達セシムヘシ」を踏襲して行われた新淀川開削の起点にあたり、日蘭交流の上で記念すべき地になっています。
 そしてこのことにちなみ、日本とオランダの交流400周年を記念してこの広場が整備されました。広場の特徴は、田園風景に代表されるオランダのおおらかな風土特性を表現していることや、17世紀から18世紀にかけて築庭されたオランダの平面幾何学庭園 「ヘット・ロー宮苑」をイメージした、多彩な曲線を基調としたデザインなどです。
2000年4月  建設省淀川工事事務所

ここには、デ・レーケからの手紙も載っています。


ここでちょっと文句があります。
毛馬閘門の説明板には、デ・レーケの名前が全く出てこないのです。
新淀川を造ることを提案したのは、このデ・レーケさんなのに! おかしいぞヽ(`Д´)ノ
『1887年(明治20年)、デ・レーケは内務省土木局長に対し、「大阪港並びに洪水通 路改修計画」を提出しました。この計画には、新たな淀川を造ることによって淀川の洪水の流れを変え、大阪市街地の浸水をなくすこと、また、今までの港を大規模に整備・築港することが盛り込まれていました。』(こちらより引用)


そのデ・レーケさんといえば!!! 巨大アヒルちゃんо(ж>▽<)y ☆
ほらほら! 右はじに書いてある!



なので、この一帯は、アヒルちゃん関連として、アヒルちゃんファンはしっかり押さえておくべきです。
なんて(*゚ー゚)ゞ


【おまけ】
1974年(昭和49年)に完成した現在の毛馬閘門。
船が通るのを初めてみました!!

水門が徐徐に上っています。


船が停まっている側から。信号は赤。


信号が青になって船が出ていきます。


反対側の門は、閉じられ、淀川の方が水位が高いのがわかります。



面白いわぁ~♪ 

って思ってもらえた人はいるのかな(;^_^A
ここまで読んでもらえただけでも、感謝です!

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