2011/01/13

十日戎の謠

(やっと本の入力が終わったので、新たな記事にします)

ブログでは、1月に入ってから十日戎に関しての検索が増え、特に福笹の縁起物についてのページのアクセスが多くなります。(その記事はこちらです)


この縁起物を束ねた吉兆については、私もわからないことがあって気になったままでした。




すると、以前、船場の「おんごく」を調べていた時(記事はこちらです)に、見つけた本、一柳安次郎(芳風)著の『漫録窓から』に十日戎のことが書かれてありました。

明治の人の説明(書いたのは明治41年1月13日)というのも興味深いので、引用してみたいと思います。
(なるべく本文の通りの旧漢字で入力しようと思うのですが、あくまでなるべく、ということで。。。)


『十日戎の謠』
 一月の九日十日は戎神社の賽日である。西宮戎をはじめ、大阪では、今宮戎堀川戎など、参詣の人を以て雑沓する。いつ頃に出来たのか、誰が作ったのか、次のやうな俗謡が盛に粹な街の糸に上ってゐる。
 十日戎の賣物は、はぜ袋に取鉢、銭叺(ぜにかます)、小判に金函(かねはこ)、立烏帽子(たてゑぼし)。米箱(よねはこ)、纎槌(さいづち)、たばね熨斗、お笹を擔(かた)げて千鳥足。
少しばかりこの謠の説明をして見よう。

 『十日戎の賣物は』 戎とは、諾(いざなぎ)・冊(いざなみ)二尊の第三子蛭兒命(ひるこのみこと)の事である=戎三郎と稱する戎は大國主神、三郎は其の三子事代主神(ことしろぬし)であるとの説が正しいが=漁業航海の神と仰がれ、更に商業を守りたまふ神となり、福徳圓満なニコニコ神となられたのである。風折烏帽子に、狩衣指貫(かりきぬさしぬき)を着て、鯛を釣上げたる其の畫像は、やがて福の神の幸運を得て、商家の尊崇を博して居られるのだ。西宮も今宮も海岸=今宮は往古那古浦といひ海潮流注の地=である。定家卿假名遣の一書には海邊人にえびすと書いたさうなが、えびすは夷狄の意義で、大國主神なり事代主神は、天孫の方から見ると夷人である。戎は蝦夷(えみじ)でえびすである。惠美須と書いては假名違ひだ。今宮近くの小學校の名に惠美と負はせてあるのは語を成さぬ滑稽である。さて、正月の十日は其の本祭日で、九日は前福、十一日は殘り福として、盛なる市を開く。もと今宮は俳人小西來山の隠栖した位の仙鄕で『今宮は蟲處なり聾なり』の名吟は、今尚ほ人口に噲炙して、昔を偲ばしめるのだが、其の『萩仰山』といはれて草深かった處も、この日には、十里四方から人の群がり集って来るので、何ともいわれぬ雑沓だ。神主殿もこの三ケ日の収入で、一年の生計を立て、商人も、この日に、仕入れた貨物を賣り盡すというのだが、商品を賣捌くのには、適當な機會ではないやうになった。田中華城の詩に『春在紅塵萬丈邊、蛭兒祭日恰晴天、商家祈福眞多事、朝賽今宮夕堀川。(※1)』 靈異小録の『有足不躡地浮行數十歩者(※2)』といへるは、この祭日雑沓の現況を巧に説明した句である。

(※1)
春は紅塵萬丈の邊に在り
蛭兒の祭日 恰も晴天
商家福を祈る 真に多事
朝には今宮に賽し夕には掘川
(掘川の蛭廟は天滿の西に在り。この日また祭る。然れども今宮に較れば、繁昌少しく減ず。)
(※2)
足地を躡/ふ/まず浮行すること數十歩なる者有り


 さて、次は『はぜ袋に取鉢、銭叺(ぜにかます)』 はぜ袋は、砂金を入れる袋で、中にははぜ麥(むぎ)を入れてある。
『粶(はぜ)は爆(はぜ)で、糯米(もちごめ)の穀(もみ)を湿して、煎りたるもの、爆ぜ脹れて、粰(すりぬか)自ら脱し、白くして雪花の如し。乾菓子の種とし、又魚を養ふ餌とす』と、言海にある。煎ると脹れるので、ふえることを祝うた意味だ。黄紅の紙で、其の形を造ってある取鉢は、銀行両替屋などで、口分けして金銭を盛る浅い木皿だ。東都では笊に澁紙(しぶがみ)を張ってゐる。錢がますは錢を入れて畜ふる叺(かます)だ、叺はもと藁蓆(わらむしろ)にて作り、穀?などを納れた嚢だが、ここでは錢を納れる袋である。

 三句は『小判に金函立て烏帽子』 烏帽子には立(たて)・折(をり)・風折(かざをり)・引立(ひきたて)・揉(もみ)・侍(さららひ)等があるが、堂上に限る。最上級のが、立烏帽子である。

『米箱(よねはこ)、纎槌(さいづち)、たばね熨斗』 米箱は米桝とも謡うてゐる。纎槌は、小さい小槌で、工業用の物で、之を買うた人は、夷祠の背後のはめ板を、力任せに打って歸る。強く打つ程、授かる福も大だとの迷信からで、祠の板も、厚き樫板を張ってあるが、それでも破れるといふ。金城の詩に『敲廟扉』(※3)とあるのは是だ。戎は聾だから、祠背を叩いて、参詣を知らすといふのも餘りに俗説らしい、『束熨斗(たばねのし)』は普通の熨斗である。異謡にはこの句『あげ桝・子寶・束熨斗』とある。揚桝は取り桝ともある。子寶は子寶で、俵・鍵・帳面などの總である。さて、上記のはぜ袋以下は、皆張子細工に作って、之を笹に結びつけてある。勿論祠(やしろ)では、子寶のみを賣ってゐる、『毎年の吉兆、毎年の子宝、買うていきなはれ』と、大聲に怒鳴ってゐる。

(※3)
春輿舁妓疾如飛   春輿 妓を舁して疾きこと飛ぶが如し
醉挈竹枝敲廟扉   醉うて竹枝を挈/と/りて廟扉を敲く
賽人數萬非祈福   賽人數萬 福を祈るに非ず
各自嚢錢抛福歸   各自の嚢錢 福を抛ちて歸る


 終の句は『お笹を擔(かた)げて千鳥足』 笹は、眞竹で、黒竹なさうな。扨これは家に歸って神棚につるしておく。住吉踊などゝ共に、錢まはりのよいのを希ふのである。千鳥足とは、歸途、微醉機嫌で歸る情態(さま)を示したものだ。今年は近年にない繁盛で、大毎には『南海踏切の橋の上から眺めると、この擔いでゐる笹で、頭も帽子も何も見江ぬ。』と書いてある。扨この謡は、中々簡潔で要を得てゐる。結句千鳥足の一句、實に泰平の象で、雍々(ようよう)たる瑞音がある。終の三句の語尾が『烏帽子』『熨斗』『足』と、偶然(し)で韻を踏んであるのは、俗謡の特徴ともいふべきである。 -(四一、一、一三)-

(※)の注釈は、大阪繁昌詩から引用させて頂きました。




一柳安次郎が、この文章を書いたのは明治41年1月13日。
明治41年は、1908年なので、103年前の今日ということになります。

特に興味深かったのは、
『纎槌(さいづち)は、小さい小槌で、工業用の物で、之を買うた人は、夷祠の背後のはめ板を、力任せに打って歸る。強く打つ程、授かる福も大だとの迷信からで、祠の板も、厚き樫板を張ってあるが、それでも破れるといふ。金城の詩に『敲廟扉』(※3)とあるのは是だ。戎は聾だから、祠背を叩いて、参詣を知らすといふのも餘りに俗説らしい』

この説明図は、牧村史陽の「大阪ことば事典」の「十日戎」のページに載っていたのですが、江戸時代は、はめ板を手でノックするようにコンコンとしていたようです。


『虚実柳巷方言(きょじつきとなまり)』(寛政)に、「十日戎は大坂の大紋日にして、粋も非雅も一統に福をいのらんとて、欲に心もくるはしく、笹をかたげて千鳥足と古めかしい歌うたひつつ、ゆすりの客はまさ月のまいりましたとうしろから背中たたいて行くもあり、・・・」 文中「うしろから背中たたいて」とあるのは、戎さんは耳が聞こえないとの俗説があるからで、参詣者は本殿の背後の羽目板を強くたたいて「戎さん、参りましたで、忘れんといとくなはれや」と駄目を押して商売繁盛を祈願する風習があることをいったもの。この切はすでに西鶴の『世間胸算用』(元禄)に見える。



これがだんだん工業様の小さな小槌で、力任せに打つようになり、厚い樫板になり、現在あるこの板が、ひょっとしたら、その名残なのかもしれません。



それでも割れるので、今のように銅鑼になったのでしょうね。


現在ある2つの銅鑼は、えべっさんの耳で2つあるとブログに書いてられる方がおられました。
今では、手の平や握りこぶしでドンドンと叩いて、「えべっさん、たのんます!」というのが普通になっています。



江戸時代の絵を見ると、お賽銭箱もなく、ただ単に神社の祠のはめ板を勝手に叩き「参詣を知らす」ことになっていたようで、それが、明治に厚い樫板になると、「強く打つ程、授かる福も大」という迷信が新たに生まれたのかも知れないですね。

今では、金属製になり、その銅鑼を思いっきりバンバン叩き、おまけに銅鑼には千社札や、名刺や、わけのわからないステッカーが重ねるようにして貼られていて、えべっさんはどう思ってられるでしょうね。。。


今年は、銅鑼は軽く叩き、お賽銭をし、中央の板に向かって「お願いします」と祈りました。

大阪の景気回復の願いは届いたかな?


(追記)
明治時代は、笹が黒竹(クロチク)だったみたいですね。
これは、大阪市公館に生えていた黒竹です。

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