2010/02/16

直木三十五 大阪物語 過去と現在の交渉

え~っと、私は何をしてたんですっけ(・_・?)

あ~ またこんなこと↑言ってますよ(><;)
直木三十五の「大阪物語」を読んでの地図の印付けですね!!!(この記事の続き)

今回は確認だけじゃなくて、作業を終えました(^_^)v


より大きな地図で 直木三十五 大阪物語 を表示

あとは、腰の調子をみながら、天気のいい日に本を片手に出かけようと思います。

この大阪物語は、直木三十五が昭和9年、43歳で亡くなる3年前に書かれています。既に、体のあちこちの調子が悪く、書けば熱が出る、座って書くことができない、時には入院もしている。こんな状態の中、東京と大阪を行き来し、書き上げられたものです。体調がよければ、昔の記憶と書物の資料だけでなく、実際に歩いて書きたいのだがそれもままならず、と嘆いてられました。

その歯がゆさ、私にもよくわかります。といっても、私は、腰が痛い、踵が痛い、すぐ疲れる程度のことですが。。。直木三十五が書かれた場所すべてを巡ることは無理でも、ほんの一部分でも、今と書かれたことを対比して紹介できればと思います。

この大阪物語は、東淀川区の江口で終わっています。このあと五代友厚のことを書き、次は、藤田伝三郎、大阪の中心に移って、それからもう一度東淀川区へ戻って書く予定にされていました。しかし、残念ながら、病状が悪化し五代友厚のことで終わってしまいました。

またこのようにも書かれています。
『私は、本当にいい物の書けるように成るのは、四十五、六から後、この「大阪物語」の如き物を、自分の満足するまでに、書けるようになるのは、六十歳前後だろうと考えている。』
『今のように、右から左へ金が消えぬようになれば、私は、大阪へ戻ってきて、もう一度この「大阪物語」をかいてもいいと考えている。』

故郷の大阪のことを、大阪の歴史を愛されていたんだな、って思います。43歳という若さで亡くなられたことが残念でなりません。

 大阪の過去の人々を、探るのはその人らの過去の功績を思って、それを現在に生かす為である。単に過去を過去として研究するのはいたづらに、現代及び未来に対して、余分の物を付加するにすぎない。
 大阪には、こうした、無意味な懐古論者が、相当にいる。過去の事のみをあさって、それと現代との交渉とを、知らない人が多い。
 人間の仕事は、未来に寄与する事が、多ければ多い程尊いのである。いたづらに懐古を懐古として、墓を巡ったって、それは殆ど好事家以外に、喜ばれる事の無いものである。
「大阪物語」上町の墓より


過去と現在との交渉、そして未来へ。

あ~ なかなか難しいことですね。
無意味な懐古ブロガーにならぬよう、心します。。。

0 件のコメント:

コメントを投稿