2010/01/19

うまいもんと大坂画壇 6

もう終わったかと思えた「うまいもんと大坂画檀」シリーズ、今回が最終回です。
年をまたいで、6回までひっぱりました(^_^)v

天保11年(1840)の料理屋の番付表「浪花料理屋家号附録」によると、東の大関は「浮瀬(うかむせ)」、西の大関は「西照庵」となっていて、他には「福屋」という料理屋も有名だったようです。

これらの料理屋は現存しませんが、いずれも四天王寺の近くにありました。多少ずれているかもしれませんが、この辺りです。

この料理屋のあったところは、高台(上町台地)になっていて、すぐ西側は崖になっていました。
そして台地から西方を望むと、見渡す限りの田園の彼方に茅渟(ちぬ)の海(現在の大阪湾)が広がっていました。

以前、司馬遼太郎の本を読んで記事にした「大阪の原形 1」でも書きましたが、四天王寺西門は日想観で有名で、周辺は夕陽を眺める名所として名高く、「夕陽が丘」と称されました。

四天王寺、その近くの寺や神社へ参詣し、美しい景観を楽しみつつ、高台の料理屋で酒食を楽しんで帰るというのは、当時の浪花の人々の遊山行楽の最たるものであったようです。

この展覧会(うまいもんと大坂画壇)では、「浮瀬」は、『奇杯品目録』と『花の下影』が、「西照庵」は、菅其翠の『浪華生玉西照庵遠望図』が紹介されていました。「西照庵」の絵は綺麗でしたよ。こういうののポストカードがホント欲しいです。

興味を持ったので、他の本や、現在の写真などを交えて紹介することにします。

寛政年間(1789-1801)に著された『摂津名所図会』でも、寺、神社と料亭が対で描かれています。「浮瀬」などの料亭は、そもそも「門前の茶店」として誕生したようです。
■西照庵と、月江(げっこう)寺


■浮瀬(うかむせ)と清水寺


■福屋と安居(安井)神社



安政元年(1854)以降元治元年(1864)の間に描かれた『花の下影』より。
■西照庵

 天保11年(1840)の浪花料理屋番付では、東の浮瀬に並んで西の大関。『守貞漫稿』でも名ある料理屋として浮瀬のつぎに名をつらねている。浪花では最高級の料理屋として名が通っていた。
 生玉月江寺の裏門の西にあって、座敷からは大坂の町々はもとより、西の海まで一望のもとに見渡せた。ことに夕陽が西に沈むころの景色は格別で、そのため西照庵の名がつけられたという。
 座敷の普請から庭の手入れ、なにからなにまで風流をきわめた。
※守貞謾稿(もりさだまんこう、守貞漫稿とも)は、江戸時代の風俗、事物を説明した一種の類書(百科事典)。著者は喜田川守貞。起稿は1837年(天保8年)で、約30年間書き続けて全35巻をなした。1600点にも及ぶ付図と詳細な解説によって、近世風俗史の基本文献とされる。(Wikipediaより)


■浮瀬

 七合半も入る直径二尺余の大盃(たいはい)、アワビやサザエなど大小の貝殻を使った貝杯 ー 料亭「浮瀬」の名物であった。
 大盃を手に縁側でかしこまる男。座敷の置くで扇子片手にあぐらをかく大尽を前に、なみなみと注がれる酒を「イッキ、イッキ」にのんでみせます、というのであろうか。
 新清水清光院の石段下にあり、はるか西南に淡路島も見えたとか。最晩年の芭蕉がここに遊び「松風の軒をめぐりて秋くれぬ」の句を残した。
※七合半入るのは11の穴を塞いだアワビの貝杯(この奇杯の銘を「浮瀬」といい、料亭の名もこれからとって浮瀬という)で、朱塗りの大盃(「七人猩々」)には6升5合入ったそうです。



『摂津名所図会』に描かれている浮瀬。


ここでも、大盃を飲みほそうとしている絵が描かれています。


この大盃には、七人猩々(しょうじょう)の蒔絵が描かれています。
猩々は中国の想像上の動物で、身体は狗(いぬ)や猿の如く、顔は人に類し、人の言葉を解し、酒を好むという。
絵は『摂津名所図会』より。


猩々といえば・・・ そうです! 天神祭の御迎え人形の一つです。


いろいろ繋がってくると面白いです(^-^)
また、こういうことも書かれてありました。(「浮瀬―奇杯ものがたり」より)

 すばらしい眺望、そして奇杯「浮瀬」、大盃「七人猩々」、その他大小さまざまな名前がつけられた貝杯を所蔵する異色な料亭は、文人墨客をひきつけ、浮瀬の名をとどめた作品が残されました。俳人芭蕉、蕪村、浄瑠璃の近松門左衛門をはじめ、それは上方、江戸を問わず近世文学史上、著名な作家が数多く登場します。長崎・出島のオランダ商館の一行が江戸参府旅行の途中、浮瀬の客となり、歓を尽くすのを常としたのも興味深い史実であります。


ほかにも、こういう絵や写真がありました。

上方60号表表紙 浮瀬料亭雪の景 長谷川貞信(木版)


上方50号 口絵 明治初年撮影の大阪名所写真 清水寺北坂



こういうことを思い浮かべながら、清水坂を上ると感慨深いものがあります。右側が、清水寺。左側が浮瀬があったところ。


浮瀬は、1887年(明治20年)頃売りに出され個人の別荘となり、現在では大阪星光学園(←大阪でトップの私立男子校です)の構内の一部になっています。正門入り口にある「浮瀬」の石碑。


浮瀬の跡地は1983年(昭和58年)「浮瀬俳跡 蕉蕪園」として整備されていますが、入るには学園に予約をしなくてはいけません・・・ なので、清水寺から写真を撮りました。


「蕉蕪園」というのは、かって浮瀬に来訪して句を残した芭蕉と蕪村の号から一字ずつを取って命名されました。園内は、両俳人の句にゆかりの草木が植えられています。
西側道路から見上げて撮った写真。


これは、安居神社から撮った清水寺。鐘や、舞台があるのが分かりますか?


コンクリートですが、舞台なのです(^_^;) 見えるのは、ビル、ビル、ビル、、、通天閣!


再び載せます『摂津名所図会』。この当時のまま清水寺や浮瀬が残っていたらよかったのになぁ・・・


想像力を高めて、散策すると楽しいです(o^-')b

浮瀬は、この本が詳しいです。
浮瀬(うむかせ)―奇杯ものがたり 坂田 昭二 (著)


この本にも6ページ載っています。
大阪名所むかし案内―絵とき「摂津名所図会」 本渡章著
「浪花の名物料亭が京、江戸にもあった」音羽、浅草にも広まった奇杯遊び



これで、「うまいもんと大坂画壇」は終わりです。

※初詣と、えべっさんの帰り、この辺りをうろうろしていたのはこの記事を書くためでもあったのです^^


【追記】昨年のTVドラマ「JIN-仁ー」とちょっと関連。
番組HPに、「お江戸マメ知識」というコーナーがあり、第7回でこのような質問がありました。
「第6話で、刺客から追われた仁先生と咲さんが神社に逃げ込んだところ、たくさんカップルがいましたよね。江戸時代は神社でデートするのが主流だったのでしょうか?」
この解説は、なるほど~(笑)でした。大阪でも確かにそう!
解説はこちらです。

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