2010/01/18

大阪をつくった男はやはり傲霜

 「五代は、大阪の為に尽して、借金以外何一つ残らなくなって、その孫の行方さへ判らない。その努力に対して、君等は、一個の銅像を建てたまま、知らぬ顔だ。それでいいのか、人間として、大阪として、大阪人として?」

これは、のちに日本最高の文学賞(直木賞)にその名を残す大阪出身の作家、直木三十五が昭和7(1932)年に発表した『五代友厚』の冒頭の一文だそうです。MSN産経ニュース【次代への名言】経営者列伝編(12)(2009.12.26)に載っていました。(←五代友厚が亡くなったのは51歳です。49歳は間違えています。)

この問いかけが大阪人の私にも投げかけられるのであれば、五代友厚を知ることなしに、水都大阪2009の「水都アート回廊 まちなか会場」になった大阪証券取引所の写真を載せるわけにはいけないと思った私は、ちょっと偉いでしょ(o^-')b なんて。

水都大阪2009って、昨年の9月。それから、造幣局の本で、動物園のことを知って、いろいろと本を読んで。
やっと自己満足ですが、水都大阪2009が終われます。

それにしても、これほどの功績を残した人がなぜそれほど有名じゃないんだろう???
じゃ、どんな功績?といわれても、多すぎてそう簡単に書けないです(><;) 

「五代友厚秘史」のあとがきにも、次のように書かれてありました。
 幕末から明治の中葉にかけて、日本の政治経済、外交、文化などの面にわたって、大きな寄与をした五代友厚が、なぜ当時の偉人並みに伝えられていないか、私は不思議でならない。


これには、次のようなことが考えられるようです。

 当時は官尊民卑の風潮が濃厚で、とくにそろばんを弾く人種を士農工商の順列によって、甚だしく卑下していた。五代友厚は、こんにちでいえば、外務省の総領事ぐらいの地位で官界を辞して、大阪の商人になった。
 だから彼が日本の経済界を左右する程の、実力者になってからも、国民の眼には、一個の大阪商人として映ずるにすぎなかった。
 従って幕末史や明治史を著述する人々にもまた、志士や武人や政治家の事績を誉ぐるに主力をそそぎ、裏面において彼らを誘掖し、彼らを鞭撻して、その目的の達成に偉大な、功績のあった民間人は除外している。それはその事実を叙することによって、幕末明治の偉人の功績が、希薄になる事を畏れたためかも知れない。そして五代友厚は、そうした裏面の功労者として典型的な人物であった。しかも五代は自らその功績も誇らず、宣伝せず、凛として世情に超然たるものがあった。五代友厚の性格は、本書に寄せられた元首相吉田茂氏の「傲霜」という題字につきている。


現代の天下りで私腹を肥やすことばかりを考えている人達には、根性入れ替えて五代友厚を見習え!と言いたくなってきます。そう言うと、おそらく『北海道官有物払い下げ事件』を持ち出してくるでしょうが、五代が政府が持てあました未開の北海道を経営し、日本の経済発展と、北辺の防衛力強化に資せようとした深謀遠慮の成熟せる愛国の至誠には、少しも触れずに、この事件を持ち出すことはやめて欲しいヾ(。`Д´。)ノ

偉そうに書いていますが、下線部分は本の言葉そのままです(;^_^A
私は、元々歴史や経済には全然興味がなかった方なので、読んだら、読んだまま「すごい!」と感激してしまうのですが、この時代は、いろいろな角度から見たほうがよさそうですね。
フィクションと正伝がごっちゃになっていたりするし(-"-;A

NHKの大河ドラマ「龍馬伝」も始まったことだし、一年かけて、テレビを見たり本を読んだりして、総合的に誰のファンになるかを決めたいと思いますo(^-^)o 軽っ!

まだ、頭の中では、60%くらい、「腰が痛い、腰が痛い」がうずめいているので、この辺で。

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