2010/01/05

大阪をつくった男は動物園もつくりたかった!

コンビニに「天王寺動物園情報誌」が置いてありました。


若い時に、動物園でボランティアをしていたことがあります。
鳥の班だったので、その頃は動物園にいる鳥類なら全て説明することが出来ました(^_^)v
ずいぶん長い間行っていませんが、動物園と聞くと「ん?ナニナニ?」と今も興味が湧いてきます。

この天王寺動物園は、1915年(大正4年)1月1日に、日本で3番目の動物園として開園しました。
1番は、東京都恩賜上野動物園(通称 上野動物園)で1882年(明治15年)3月20日です。

しかしそのずっと前に、大阪に動物園を作ろうと考えた人がいるのです。
この方です! ジャン!


五代友厚。北浜の大阪証券取引所前に銅像がそびえ立っています。明治新政府の役人として大阪に着任したことをきっかけに実業家として活躍し、現在の大阪商工会議所、大阪証券取引所、大阪市立大学、造幣局などの設立に尽力、鉱山経営にも手を広げ関西経済界の重鎮といわれました。


大阪証券取引所は、水都大阪2009で「水都アート回廊 まちなか会場」にもなっていました。
“気―森の水” (アーティスト)大久保英治
 


 


五代友厚。男前!です(´∀`)
五代 友厚(ごだい ともあつ、天保6年12月26日(1836年2月12日) - 明治18年(1885年)9月25日)は、江戸末期の武士・薩摩藩士、明治期の実業家。薩摩国鹿児島郡長田町城ヶ谷(鹿児島城下、現鹿児島市長田町)生まれ。幼名は徳助。通称才助。関西経済界の重鎮。「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図る。東の渋沢栄一、西の五代友厚とも称される。(Wikipediaより)




五代友厚を紹介して、水都大阪2009を終わろうと思っていたのですが、大阪の歴史や、経済に疎い私は、いくら男前でも五代友厚に興味が湧きませんでした(-"-;A 

しかし、その後、五代友厚に興味が湧くことを見つけたのです!
それは、昨年11月に造幣局の「みゆき橋」のことを調べた時(こちらです)で、「造幣100年」という本の中にありました。

本局内と周辺の旧蹟
本局構内や周辺は、戸外博物館とでも言えるほど旧蹟がすこぶる多い。(中略)
鉄柵は維新直後、大阪府判事五代友厚が動物園をつくるため(のち中止)に購入したのもを、久世善弘の進言で当局がもらい受けて、明治3年に工場の周囲に張りめぐらしたが、戦時中(昭和18年)鉄材供出で大半を失い、かろうじて一部残存しているもの。先端は”大坂”の大の字をかたどったものである。


えぇ~~~~(ノ゚ο゚)ノ こんな計画があったの? 

確か、この柵の説明は、造幣局の桜の通り抜けの時に見た!と思ったけど、人が多くて写真すら撮っていなかったので、即!自転車で行ってきました。




 「鉄柵」について
 明治元年(1868年)、当時大阪府知事であった後藤象二郎が、大坂城内に動物園を作るためにイギリスから輸入された鉄柵でしたが、中止になるというのを聞きつけた造幣局判事久世喜弘の進言により、造幣寮の取り締まりに必要不可欠のものであり、また、威厳保持のため、これを譲り受けたいと懇願し、井上馨の口利きで建設中の造幣寮に貰い受け、工場の周囲に張り巡らしたものです。
 鉄柵の先端にある≪大≫の字に似た文字は、当時の”大坂”の【大】の字をかたちどったものといわれています。


あれれ???
動物園を作ろうとしたのが五代友厚から、後藤象二郎になっている・・・(-"-;A
その辺のことは「動物園の歴史」という本に載っていました。
いつも通り、脇道にばかりそれますが、いろいろ面白いことがわかりました。

(左)造幣100年 (1971年) 大蔵省造幣局著
(右)動物園の歴史 : 日本における動物園の成立 (1975年) 佐々木時雄著


動物園をはじめて日本に紹介したのは、慶応2年(1866年)に出版された「西洋事情」で、この書物は文久2年(1862)の遣欧使節(一行38名)に随行した福沢諭吉の見解にもとづいています。
(1862年は、昨年の人気ドラマ「Jin -仁-」で、南方仁先生が江戸時代にタイプスリップした年です。)

一行が訪れた動物園は、、、
 パリ ル・ジャルダン・ダクリマタシオン(1860年開園)
 ロンドン動物園(1828年開園)
 ロッテルダム動物園(1856年開園)
 アムステルダム動物園(1838年開園)
 ベルリン動物園(1844年開園)
 パリ ジャルダンデプラント(1793年開園)


大きな地図で見る

※アメリカで最初の動物園がニューヨークセントラル・パークの一隅に開園したのは、慶応元年(1865年)です。

この一行が動物園を見学した時の様子が面白いです。
羽織に袴、白足袋に草履。そして武士はチョンマゲ(医師は総髪)。そして腰には刀。
遠い東洋から初めてやってきた異様な服装をした一行は、どこに行っても現地の人の好奇の目にさらされ、動物園の観客は動物をそっちのけにして、この東洋人のまわりに集まり、あとからぞろぞろついてきたそうです。

想像つきますよね( ´艸`) 
これが、恥ずかしがるのではなく、得意気だったようです。さすが誇り高き幕末武士。

そして一行は、初めて見る珍しい動物に目をみはりました。
巨大なニシキヘビ、キリン、カバ、カンガルーなどなど。

動物園を見学した幕末武士は動物の原産地に興味はもったものの、飼育の条件までも言及したのは福沢諭吉だけだったようです。

福沢諭吉って、やっぱすごい。。。 
って全然五代友厚がでてこないやん?  (←ひとりつっこみ)

帰国した福沢諭吉が『西洋事情』を執筆し、その出版を準備していた頃、慶応元年(1865年)12月、五代友厚はパリにいて、日本それも大阪に動物園をつくろうと考えていました。

では、なぜ五代友厚がヨーロッパにいたか?
慶応元年3月、幕府のきびしい禁制を犯してひそかに薩摩藩が有為の青年を留学生としてイギリスに送り出し、その時、五代友厚も別の使命を帯びた重要人物として渡航していたのです。

3月、ロンドンでは、フランス貴族(実はベルギー人)のモンブラン伯爵との出会いがあり、
7月にはブリュッセルで、薩摩藩に兵器や機械などを導入するために斡旋を業務とする会社をモンブランに設立させ、薩摩藩はこの会社を通してすべてを購入するという契約を締結しました。
そして、12月パリに移った時には、設立される会社が薩摩藩に提供すべき物件のリストが作成されました。

このリストの文書(『薩摩海軍史』中巻所収)の中に、動物園が出てくるのです(・∀・)

第1は新造鉄製軍艦。次に7項目にわたって各種の機械。
その次の4項目は、大阪の地に関係するもの。

薩摩藩の重要人物として渡航しているのに大阪って驚きです!!!(←まだ歴史の流れをつかめていなかったので理解できませんでした。ハズカシ)
第1は、「動物館」
第2は、川堀蒸気機関。これは大阪市内の堀や川を深くする浚渫(しゅんせつ)機械。
第3は、蒸気飛脚船大形外車一艘。これは九州と大阪とを結ぶ快速外輪客船。
第4は、大阪と京都を結ぶ蒸気車および「テイグラフ」。これは鉄道と電信。
「右四ヶ条は、我が朝の形勢次第、なるべく速かに相開き申し度く候」となっていました。

この「動物館」には、つぎの説明が付記されていました。
「右は我が朝の国民もっとも珍重する事にして、財を厭わず見物すべし。これに依って大阪の地に開く時は、我が朝の中央にして見物の貴賎きわめて多く、広大の有益なり」と。

五代友厚は、ロンドン、ブリュッセル、パリと移動する中で、動物園も見学していたようです。

この富国強兵のためのものの中に、「動物館」とは興味深いです。
緻密な経済人としての頭脳の持ち主であった五代友厚は、動物園を採算のとれる経営が成り立つと考えたのでしょう。また、島津家(薩摩藩)の藩風として動物に対して積極的に関心を持っている(※1)ということも考えられるようです。

しかし、この計画は実現することなく、夢として終わってしまいました・・・
それは、薩摩藩が、フランス寄りになるか、イギリス寄りになるか、という情勢の変化があったからです。
五代友厚と契約をしたフランスのモンブラン伯より、イギリスの公使パークスが歓迎されることになったのです。

残念 (´_`。)

となると、この「動物園の歴史」を読むだけでは、造幣局の鉄柵や、後藤象二郎が大阪城に動物園を作ろうとした話は、???となるのですが、またいつか分かることがあるかもしれないので、保留にしておくことにします。


動物園のことで一気に五代友厚への興味が急上昇↑↑↑したので、この時とばかりに読破しました!


大阪をつくった男―五代友厚の生涯: 阿部 牧郎
士魂商才―五代友厚: 佐江 衆一
功名を欲せず―起業家・五代友厚の生涯: 渡部 修

なっかなか面白かったですよ。「大阪をつくった男」が一番よかったかな。
五代友厚は、功名は欲せず、女を欲す  ( ´艸`)
こういう面も知った方が歴史は面白いですね。
龍馬もでてきたし。

肝心な感想を書いていませんが、だらだら長くなったのでこの辺で。

NHKの龍馬伝は、うっかり録画を忘れて見ていません。面白かったのかな?
土曜日の再放送で見てみます^^


【追記】 ※1『動物園の歴史』より引用 P.35
 それにしても、軍艦にはじまり製造機械や運輸通信手段、さらに採鉱技術にいたる発注予定物件のあいだに動物園の開設をはさむほど、かれの動物への関心はふかかったのだろうか、ヨーロッパでかれが接した数多くの文化的施設のうち、ただ動物園だけを、かれをして着目させたなにかが、かれの背後にあったのではないだろうか。
 それを考えているうちに、薩摩藩の家臣たちには、ヨーロッパで動物園という施設に共感し、それに着眼する心理的な、あるいは教養的な素地が伝統的にあったのではないかという気がしてきた。
 まず浮かぶのは、島津家25代目の藩主、重豪(しげひで)の動物に対する積極的な関心である。
    (中略)
 たしかにこの老人(重豪)は「動物や天産物の大の愛好者」と自称するだけのことはあった。かれはすでに早く、すぐれた博物学者の曾占春(そうせんしゅん)(1758-1834)を召しかかえ、動物と植物について多くの著作をさせている。また郷里の鹿児島に緬羊も飼育させている。その江戸屋敷には内外の多くの鳥を飼っており、その担当者に飼育法の書物をつくらせている。そしてシーボルトと会見した4年後には、415種類の鳥を五十音順に配列し、それぞれの和漢洋名と解説をつけた『鳥名便覧』を、南山老人という筆名で、みずから編纂している。
 頭脳は聡明、肉体は驚くほど強靭、そして精神はきわめて積極進取的なこの人物は、じつに80年に近い長期にわたって薩摩藩のうえに実権を掌握し、君臨しつづけたのであったから、かれの動物に対する関心も、広く家臣のあいだに浸透し、後代にまで影響せずにはおかなかったにちがいない。
 時代がさがって、重豪の曾孫、島津斉彬が鹿児島の城内に「動植館」をつくったのも、おそらく曾祖父からの影響のうえに、その伝統を継承したものとみなせよう。そして五代友厚は島津藩の家臣として、重豪・斉彬以来のいわば藩風ともいえるこの関心を背景にして、とくに動物園に着目したのであったと解釈することができよう。

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