2009/12/16

うまいもんと大坂画壇 2

うまいもんと大坂画壇 1」の続きです。
展覧会では、大阪を代表する料亭『花外楼』(かがいろう)の床の間を彩る維新の元勲の書画が展示されていました。
なぜ、維新の元勲の書画があるか、まずは『花外楼』の紹介から。花外楼本館HP

 花外楼は天保年間、加賀の国から出て来た伊助が北浜の現在の地に「加賀伊」と称して料理屋を開いたのが始まりです。
 明治8年(1875)、混迷を極めた政治改革の中で、大久保利通、木戸孝允、板垣退助、伊藤博文、井上馨らが「加賀伊」に集い日本の将来を話し合いました。世にいう大阪会議と言われるもので、その後の立憲政体の「礎」を築くことになりました。この大阪会議の成功を祝い、木戸孝允によって「花外楼」が命名されたのです。かくして、料亭「花外楼」は大阪会議の史跡となり、困難な話し合いは「花外楼」でというジンクス(※)が生まれるに至りました。(展覧会説明パネルより)


※「大阪会議」で縁が結ばれ、縁起がいいということで、現在でも、お見合いの話から銀行や企業の統合・合併、さまざまな発足会、などが行われているそうです。

大阪会議以来、『花外楼』には、政界、官界の大立物が続々と出入りするようになりました。
「花外楼」にある書画は、コレクションとして買い集められたものではなく、出入りする政界、官界の大立物が「花外楼」に寄贈したものが大切に保管されているのです。


(写真右)大阪会議が行われた「加賀伊」(「旧花外楼」)
(写真左)木戸孝允書 花外楼扁額 『花外楼 明治八年春二月 松菊』

『明治大正図誌11 大阪』 筑摩書房 より引用

昭和39年には、京阪電車が開通し、淀屋橋駅ができ、新様式のビルに衣替えしました。木造の「旧花外楼」は大阪市に寄贈され、現在は歴史博物館に模型となって、展示されています。今回の展覧会では、この模型も展示されていました。「旧花外楼」の部材が歴史博物館に保管されていたのに、結局再建されなかったことは、残念でなりません。。。

今も、「花外楼」の文字は、木戸孝允の書体が使われています。 ↓  ↓  ↓


大阪会議開催の地の碑
 


では、パンフレットに載っていた書画を紹介します。


(右)■『柴野栗山書』
柴野栗山(しばの りつざん、元文元年(1736年) - 文化4年12月1日(1807年12月29日))は、江戸時代の儒学者・文人である。讃岐国(現:香川県)で生まれた。寛政の三博士の一人として知られる。Wikipediaより

   今宵有酒今宵酔 明日愁来明日愁 (権審 絶句詩)他にも説あり
   (今宵 酒有れば 今宵 酔い、明日 愁い来たれば 明日 愁う。)

   料亭に送るにふさわしい漢詩ですね。


(中)■『六歌仙』 井上馨
井上 馨(いのうえ かおる、天保6年11月28日(1836年1月16日) - 大正4年(1915年)9月1日)は、日本の武士・長州藩士、政治家、実業家。従一位大勲位侯爵、元老。Wikipediaより



(左)■『船中之詩』木戸孝允の筆による帰国の船中で詠んだ七言絶句  
   火輪如矢戴波還 一帯陰烟潮水斑
   千里鵬程無寸碧 舷頭始見馬関山
   船中所作 松菊生

 木戸 孝允(きど たかよし、天保4年6月26日(1833年8月11日) - 明治10年(1877年)5月26日)は、幕末~明治初期に活躍した日本の武士・政治家。長州藩士で、いわゆる「長州閥」の巨頭。江戸時代(幕末)には、桂小五郎(かつらこごろう)として知られていた尊王攘夷派の中心人物で、薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」として並び称せられる。Wikipediaより

   この方は、あまりよく知らないのです・・・知らないと詩を理解しようとする気も薄れて(;^_^A

4代目、現大女将である徳光清子さんのエピソードにこういうことが書かれてありました。『コレクションとしてお金を出して集めはる人もあるけど、うちのものはお金を出して買うたというものは無いのです。木戸さんなら木戸さんが外国から帰って来てうちへ真っ先に来て書いてくださったとか、そういうご機嫌のいい時に書いてくださったとか、そういうものばっかりでね。』 どれだけ木戸孝允が、花外楼を贔屓にしていたかわかりますね。この書は、家宝にされているそうです。



他には、伊藤博文『花外紅楼』、柴田家門『至誠一貫』、高橋是清『花外楼』の書がありました。直筆を目の当たりにするとドキドキします。
*「至誠一貫」は、中国の孟子の「至誠にして動かざる者いまだこれあらざるなり」の語によるもので、真心(まごころ)をもって一生を生きていくという意味です。



中でも、一番興味を持ったのが、吉田茂の書。(昭和24年)
   『不召而自来』  召(まね)かずして自(おのずか)ら来(きた)り

 吉田 茂(よしだ しげる、1878年(明治11年) - 1967年(昭和42年))は、日本の外交官、政治家。第45代・第48代・第49代・第50代・第51代内閣総理大臣。従一位・大勲位。聡明な頭脳と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立てた。ふくよかな風貌と、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」とも呼ばれた。Wikipediaより
 

呼ばれてなくても来てやったぞと、吉田茂 らしいユーモアある料亭に贈る言葉だと説明が書かれてありました。(うろ覚えなので、びみょ~に意味合いが違っていたらすみませんm(_ _ )m)

帰ってきて調べてみると、これは、『老子』第73章の一節でした。
   勇於敢則殺、勇於不敢則活。
   此兩者或利、或害。
   天之所惡、孰知其故。
   是以聖人猶難之。
   天之道不爭而善勝、不言而善應、不召而自來、繟然而善謀。
   天網恢恢、疏而不漏。

   敢(あえ)てするに勇なれば則(すなわ)ち殺(さつ)、敢てせざるに勇なればすなわち活(かつ)。
   この両者は或(あるい)は利、或は害。
   天の悪(にく)む所、孰(たれ)かその故を知らん。
   是を以って聖人すら猶(な)お之を難(かた)しとす。
   天の道は争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ、
   召(まね)かずして自(おのずか)ら来(きた)り、繟然(せんぜん)として善く謀(はか)る。
   天網(てんもう)恢恢(かいかい)、疏(そ)にして漏らさず。

【訳文】
積極的にする勇気は、わが身を滅ぼし、後へ退く勇気は、わが身を活かす。だが、利と害どちらを選ぶかは、時と場合による。天の真意は誰にもわからない。聖人でさえも察知することは難しいのだ。いったい天の道は、争わないでうまく勝ち、ものいわないでうまく反応し、招かなくても、自然にやってきて、ゆったりしていながらも、内に深い謀(はかりごと)を秘めている。天の法網は広々として、その目は粗いが、それでもどんな小さな悪事でも見逃すことはない。
『「タオ=道」の思想』 林田愼之助 著より引用


こうして、老子の原文、訳文を読むと、吉田茂からの言葉としてもユーモアがあり、「花外楼」の言葉としても料亭の真髄をついたような言葉でもあり、なんて洒落た素敵な言葉をしたためたのだろうと感心しました。

ミシェランガイドに載ったとか、★が何個だとかいうのは、つまらなく思えてきます。


「天網恢恢疎にして失わず」はことわざになっているようです。
『善は必ず栄え、悪は必ず滅びる、天の網の目は一見粗いようだが、決して悪を見過ごすことはない。悪行には必ず天罰が下るということ。』

船場○○さんの悪は、見過ごされることなく、天罰が下りましたもんね。


誰が、どこで、何を思って言葉を選び、書いたか。 というのは面白いですね。

その直筆を見れたことも感動です。よかった、よかった(^-^)


このことを書くにあたって。
「不召而自来」が老子の一節かどうか悩んでいた時、他に吉田茂が『老子』第68章の一節「善勝敵者不争」を書いた色紙があることを教えてくださり、吉田茂が『老子』に慣れ親しんでいたのではないかとの意見をくださったCask Strengthのconsigliereさん。本当にありがとうございました。



より大きな地図で 花外楼 を表示

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