2009/11/17

「洪庵のたいまつ」(洪庵の松明)

『大阪の原形 -日本におけるもっとも市民的な都市-』司馬遼太郎 著
この本の中に書かれてある「大阪で誇れるもの」の2つ目の記事を書こうと思っているのですが、寄り道ばかりをしています(;^_^A
大阪の原形 1」でも書いたように、図書館で借りている本は廃刊になっているので、『大阪の原形』が含まれる「十六の話」を買っておこうと思って梅田の旭屋書店に出かけました。
OAPタワーと造幣局の間の道を、まっすぐ西に抜けるとお初天神に出て、私が自転車で梅田に行くルートになっています。

その途中には龍海寺というお寺があり、そこには緒方洪庵の遺髪が納められるお墓があります。今まで、写真を撮ったことがなかったので、外からですが写真を撮り、手を合わせ、それから梅田に向かいました。

そして、家に帰ってから「十六の話」を開いてみると、『洪庵のたいまつ』(洪庵の松明)という話が含まれていました。こういう繋がりは、いったいなんなのでしょう。ほんと驚きです。

実は、緒方洪庵の本は、NHK土曜時代劇「浪花の華 ~緒方洪庵事件帳~」(★12月7日からBSハイビジョンで再放送があります!こちら)の時にも読んで、今回TBS日曜劇場「Jin-仁-」を見るにあたっても、「緒方洪庵と大坂の除痘館」という本を読んでいました。

でも、小学国語の教科書向けに書かれた10ページほどの短い話ながら、司馬遼太郎氏が書かれた「洪庵のたいまつ」が一番、緒方洪庵という方を感じることができました。司馬遼太郎という方は、本当に歴史上の人物を蘇らせる文章を書かれると今更ながら感動しました。

 「洪庵のたいまつ」
 世のためにつくした人の一生ほど、美しいものはない。
 ここでは、特に美しい生がいを送った人について語りたい。
 緒方洪庵のことである。
 この人は、江戸末期に生まれた。
 医者であった。
 かれは、名を求めず、利を求めなかった。
 あふれるほどの実力がありながら、しかも他人のために生き続けた。そういう生がいは、ふり返ってみると、実に美しく思えるのである。



 適塾の建物は、今でも残っている。場所は、大阪市東区(現在は中央区)北浜3丁目である。
 当時、そのあたりは、商家がのきをならべていて、適塾の建物はその間にはさまれていた。造りも商家風で、今日の学校という感じのものではない。門もなければ、運動場もなく、あるのは二階建てのただの民家だった。



 洪庵は、自分自身と弟子たちへのいましめとして、十二か条よりなる訓かいを書いた。その第一条の意味は、次のようで、まことにきびしい。
  医者がこの世で生活しているのは、人のためであって自分のためではない。決して有名になろうと思うな。また利益を追おうとするな。ただただ自分をすてよ。そして人を救うことだけを考えよ。



 そういう洪庵に対し、幕府は、
 「江戸へ来て、将軍様の侍医(奥医師)になれ。」
 ということを言ってきた。目もくらむほどにめいよなことだった。奥医師というのは、日本最高の医師というだけでなく、その身分は小さな大名よりも高かったのである。つまり、洪庵の自分へのいましめに反することだった。
 洪庵は断り続けた。しかし幕府は聞かず、ついに、いやいやながらそれにしたがった。

 洪庵は五十三才のときに江戸へ行き、そのよく年、あっけなくなくなってしまった。
 もともと病弱であったから、わかいころから体をいたわり続け、心もできるだけのどかにするよう心がけてきた。
 ところが、江戸でのはなやかな生活は、洪庵の性に合わず、心ののどかさも失われてしまった。それに新しい生活が、かれに無理を強いた。それらが、かれの健康をむしばみ、江戸へ行ったよく年、火が消えるようにしてなくなったのである。


龍海寺 緒方洪庵墓所 大阪市北区同心1-3-1


左側の塀の内に見える一段と高い二つのお墓が、緒方洪庵(右)と、妻八重(左)のお墓です。


緒方洪庵の御遺骨は、東京駒込高林寺に埋葬されているのですが、
大阪に埋葬して欲しかっただろうな。。。と思うのでした。

 かれの偉大さは、自分の火を、弟子たちの一人一人に移し続けたことである。



TBS日曜劇場「Jin-仁-」でも、武田鉄也さんが緒方洪庵を熱演されていて、緒方洪庵に対して興味を持つ方も増えているようです。
ぜひ、この「洪庵のたいまつ」もお読みください。 
来週は・・・来週は・・・ 。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。



別の記事にするといつになるかわからないので、除痘館に関する写真もここに載せておきます。除痘館については、「緒方洪庵と大坂の除痘館」古西義麿 著(東方出版)が詳しいです。


最初に緒方洪庵が、「除痘館」を開いた跡の石碑。
嘉永2年(1849年) 11月7日に古手町(現在の道修町4丁目)のこのあたりに開設。





万延元年(1866年)10月に尼嵜町(現在の今橋3丁目)に移転されました。







漫画家の手塚治虫の曾祖父 手塚 良仙(良庵)も適塾の門下生でした。
曾孫である手塚治虫は、後に手塚良仙を主人公の1人とした伝記漫画「陽だまりの樹」を執筆されていて、その絵が「洪庵記念館」に飾られています。







より大きな地図で 緒方洪庵ゆかりの地 を表示

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