2009/11/09

大阪の原形 1

先日(といっても、随分前のことになりました・・・)図書館に行った時、興味深い本を見つけました。

『大阪の原形 -日本におけるもっとも市民的な都市-』
司馬遼太郎 著
企画 大阪市、発行所 (財)大阪都市協会、昭和62年発行

OSAKA AS A PRECIPITATE OF HISTORY * A Personal Appraisal of Its Plebeian Origins
Ryotaro Shiba

(表紙を開いてスキャンしています)

この本は、タイトルが英語になっている通り、外国人に大阪をよりよく知ってもらうために発行された本で、英文を主体として書かれています(英訳は、Linguabank, Inc.)。日本語原文も併載されていますが(82ページ)、これは日本語を学んでいる外国人のためのようです。

「発刊にあたって」はこちら↓をどうぞ。



この本は、今はもう廃刊になっていますが、現在では『十六の話』に含まれています。



司馬遼太郎氏はどのように大阪を語るのでしょう(・∀・)
(図書館の本で返却しなければいけなく、記録として残しておきたいので引用が多めです。)



最初の章は「古代の大阪」。
やはり古代、縄文時代にまでさかのぼって説明されていました。

アヒルちゃんがいた八軒家浜のことを書いた時(こちらです)に、縄文時代にまで遡ってちょこっと書いたので、妙に嬉しくなりました。やはりあの場所は、大阪の原点を語る上で重要な場所で、その案内キャラクターとして、アヒルちゃんが居て欲しいとつくづく思いました。

私のにわか仕込みの知識で書いたものとは違い、司馬遼太郎氏が語る古代の大阪が形成されるくだりはロマンがあります。

 とくに奈良盆地から流れてきている水流は、土砂を多くふくんでいた。この水流が、河内平野とよばれる平野を大雨のごとに水びたしにしつつ、上町台地の北端を洗って河口にそそいでいた。このため、河口やその沖での土砂の堆積がはなはだしく、三、四世紀ごろには、その数がおびただしかった。当時の古語で、この島(実際には洲)の多さをたとえて、
 「八十島(やそじま)」
 とよんだ。大阪市における扇状地、もしくは沖積平野が、この当時形成されつつあったことを、この古語は目に見えるようにあらわしている。
 同時に古代人にとって、島が誕生してゆくことに、神のわざを感じたのにちがいなく、ふるくからこの浜辺で、八十島をめでたく思う意味をこめた神事がおこなわれていた。その神事をおこなう神社が、日本でももっとも古い神社の一つである住吉大社であった。

 八世紀ぐらいまでは、海はいまよりも内陸近くにまできていた。こんにち四天王寺と大阪城を載せている台地(上町台地)の西のふもとは、まだ渚だった。浜の砂は白かった。なぜならば旧大和川が押し流してくる砂は日本でももっともうつくしい砂で、白くかがやいていたから、この海のうつくしさは十分に想像できるのである。海辺には松原がゆたかに茂っていたはずであった。




素敵な景色ですね~ :*:・( ̄∀ ̄)・:*:


「古代の大阪」の説明は面白いのですが、書き出すときりがありません。
この上町台地から眼下に広がる美しい砂浜をイメージしたまま、「十三、四世紀のこと」の章へと移ります。


この章で、司馬遼太郎氏は、大阪で誇れるものを2つあげてられます。
その一つは、、、

 夕陽ヶ丘からみる夕陽は美しい。
 私は学校に通っていたころ、このあたりが好きでよく歩いた。ある夕、朱色ーあまりにもあざやかな朱であるために天体とはおもえない太陽が、大気のなかを漂うようにして沈んでゆくのを見て、息をわすれるような思いがした。
 (大阪の名所をあげよといわれれば、この崖ではないか。)
 と思ったりした。むろん、たいていの大阪のひとたちは、ここからの夕陽を見るために諸国からひとびとがあつまったということを忘れている。夕陽など世界じゅうのどこでも見られるもので、わざわざ大阪(当時は大阪という地名はない。難波(なにわ)だった)の特定の場所へゆく必要はないのである。しかし、十二、三世紀から十三、四世紀ぐらいの日本人にとっては、
 「難波の四天王寺の日想観」
 というのは、有名であった。

I used to take a walk here every once in a while as a schoolboy, and I still remember very vividly how I would hold often my breath in wonder at the pure vermilion of the sun as it hovered majestically in the western sky. I wouldn't have hesitated a moment to recommend this spot as by far the best of all sights in all of Osaka.
Most of the residents of Osaka today do not remember how people from all over the country used to make their pilgrimage to these cliffs just to watch the setting sun. Of course, the setting sun is for everybody to see anywhere in the world, so why bother to travel all the way to Osaka, or to Naniwa as it was known then? But to the Japanese people of the 12, 13, and 14 centuries, "Nisso-Kan of Tennoji of Naniwa" was an experience never to be missed.


日想観についてはこのように説明されています。
 天台教学には顕教と密教の二大部門があり、その顕教の部門の行のひとつとして「日想観」というのがあった。観、あるいは止観ともいう。
 「止観」
 とは、仏教の修養法の一つである。止は、妄念を止め、真理を体得し、心をしずかにさせることである。観とは、止によって得た明智を精神のなかにたくわえつつ、その明智によって事物を正しく判断する精神の状態をいう。
 日想観というのは、多くの止観のうちの一つである。
 西方(観念的な西方)に阿弥陀仏の浄土がある。太陽は西方に沈む。そのあかあかと沈んでいく太陽を観ることによって、心を形而上的世界へ昇華させてゆく。そのために『観無量寿経』(阿弥陀如来の浄土についての教典)を誦し、誦しつづける。日想観は、そういう文学的な要素をもつ止観である。

Its(Eizan) instruction consisted of the esoteric devision and the exoteric division. One of the services, or religious austerities, required in the exoteric division was called Nisso-Kan or "the discipline of solar meditation."
Kan or Shi-Kan is a Buddhist act of self-discipline, wherein Shi or "pause" refers to a state of spiritual serenity cleansed of all earthly distractions, while Kan refers to the process of internalizing in one's mind the truth and insights thus reached and of living up to them in both conduct and in judgement Nisso-Kan was just one of many such acts of Shi-kan.
The sun sets in the west, and in the west, according to their belief, lies Sukhavati or or the "Pure Land of the West of Amitabha". Ascetics would watch the sun as it burned itself crimson and settled in the west and enhance their state of mind up to the realm of the metaphysical, chanting their way through the Sukhavati sutra. The whole exercise was as esthetic and poetic as it was religious.


 日想観もこの十四、五世紀においては通俗化していて、善男善女が春や秋の彼岸の日(春分・秋分の日を中心とする七日間)に四天王寺に参詣し、すでにふれた「西門(さいもん)」とよばれる石造の鳥居ごしに海のほう(西の方向)に対い、そこに夕陽が落ちるのを拝むというだけの、いわば大衆的な行事になってしまってたことが『弱法師』(*)によってわかる。 *世阿弥原作の謡曲。

 この『弱法師』の十四、五世紀では、まだ都市は形成されていない。町程度の集落すらこの大阪の地にはなかったのである。海岸には塩を焼く煙がただよい、四天王寺の西門の石鳥居から西をみると、大阪湾の波ごしにいまの神戸の一ノ谷が見えた。夕陽は一ノ谷を赤く染めて落ちてゆく。

Nisso-Kan, originally a strict ordeal of religious austerities for ascetics, had become rather secularized by the 14th or 15th century, so that the weeks of the vernal and autumnal equinoxes were now specially set aside for pious folks to visit the Temple. They would reverently face west, and watch and worship the sun setting over the stone archway of the West Gate out into the sea. The story of Yoro-Boshi helps us visualize what it was like on these special occasions.
There were no cities formed as such in Osaka by the 14th or 15th centuries, nor any sizeable settlements or towns. Streaks of smoke rose above the beaches where seaweed was burned for salt, and as one looled in the west over the stone archway of the West Gate, one could have a distant view, beyond the ripples of the Bay of Osaka, of Ichinotani of Kobe dyed crimson by the westering sun.



春分の日から6日遅れですが、四天王寺極楽門からの夕陽です。2009年3月26日撮影(2009年春分の日は3月20日)。この日の記事は、こちらです。


現在では、海岸線ははるか遠くになり、鳥居の向こうにはビルが立ち並び、風情がなくなってしまいました。それでも、彼岸の中日にはたくさんの人が夕陽を見に来られます。
明治維新までの四天王寺は広い領地をもっていたので、そのままだったらこういうことにはなっていないかもしれません。明治維新という巨大な革命で、大名や社寺といった封建領主からいっさいの土地が取り上げられ、近代の都市計画のもと、歴史的景観が考慮されない街になってしまいました。
とても残念でなりません(_ _。)


そこで、私は思ったのです!
WTCコスモタワーで、いにしえの四天王寺で見れた夕陽が見れるのではないかと。
その時の記事はこちらです。



その時の夕陽は、雲が多く残念ながらこのような感じでした。


それがこのように見えたらどれだけ壮大なことか!
2007年10月22日撮影 マンション最上階から見た夕陽



大阪ベイエリアは、もっとこの夕陽のことをアピールすべきだ!!!
と思って、ネットの中をうろうろしていると、同じことを考えてられる方がおられました(・∀・)

一心寺の高口恭行住職のインタビュー記事です。(4ページあります)
ベイエリアで夕陽を 夕日+大阪人パワーで街に元気を

夕陽の力をみんなが自覚すれば、それが大阪のアイデンティティになり、大阪のイメージになり、いろんな工夫がされるようになります。


このインタビューを読んだ時、鳥肌がたつくらい感動を覚えました。

「大阪は夕陽の街だ」



大阪生まれ、大阪育ちの司馬遼太郎氏が誇れることだと仰ってられるのです。
大阪をバカにする他府県の人も、ケチのつけようがないでしょう。

『大阪の原形 -日本におけるもっとも市民的な都市-』
再版を強く望みます。


夕陽のことはひとまず終わります。でもまだつづきます^^

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