2009/11/12

大阪の原形 1.5

*「大阪の原形 1」の続きです。

「大阪の原形 2」の前に、ちょっと追加します。

スーパーでこのような小冊子を見つけました。「大阪おさかな健康食品協議会」発行


難波、浪速、浪華、浪花というのは知っていますが、「魚庭」と書いて、「なにわ」と読むのは初めて知りました(・∀・) このように書かれてあります。

 瀬戸内海の玄関口にあたる大阪湾は、明石海峡、紀淡海峡からの強い潮流と、淀川、大和川などの河川からの豊富な栄養分に恵まれ、古くから「魚庭(なにわ)」や「チヌ(=クロダイ)の海」と呼ばれる好漁場として、関西の食文化を支えてきました。
 また、大阪湾の漁業の歴史は縄文時代にさかのぼり、中世には日本の漁業の中心地として、進んだ漁撈技術が、房総半島や対馬にまで伝えられました。



大阪湾の南岸一帯のことを、八、九世紀までは「ちぬの海」と呼んでいたことは、司馬遼太郎氏の『大阪の原形』のも書かれてありました。
でも、「魚庭(なにわ)」というのは残念ながら書かれてありませんでした。

とはいえ、いろいろ言われはあるもので、魚の庭で「なにわ」と読む、大阪湾の別名も素敵ですね。

 大阪湾では今も食用とされる魚介類だけで約230種が確認されており、活発に漁業が行われています。


このことも、もっと大阪のアピールポイントにすべきかもしれないですね。(もうなっているのかな???)



司馬遼太郎氏の『大阪の原形』の中でも漁業のことが書かれています。この辺りの内容も面白いので引用しておきます。

 そのころ(四天王寺が造営(593年)されたころ)にもし”大阪市民”の先祖がいたとすれば、漁民だったであろう。
 大阪湾の南岸一帯の海のことを、八、九世紀までは、
 「ちぬの海」
 とよばれていた。
 八世紀半ばに成立した歌集に『万葉集』がある。国家が編纂した詞華集で、天皇から無名の庶民にいたるまでの歌が約四五〇〇首あつめられている。
 その巻第八に、

 血沼廻(ちぬみ)より雨そ降り来る四極(しはつ)(地名)の白水郎(あま)網手綱乾せり濡れあへむかも

 血沼廻(ちぬみ)のみは浦(ウラ・ウラミ)のことである。歌意は「ちぬの海の岸べから雨が降ってきたぞ、四極(後述)の浜で漁師が網や手綱を乾かしているのをみたが、気の毒にあれが濡れてしまうだろうなあ」ということで、他人の労働へのいたわりがよくあらわれている。
 四極(しはつ)というのは、古代の津の一つらしい。磯歯津(しはつ)とも書く。いまは陸地になっているが、住吉区のどこかに存在した浜のことである。
 この四極のあたりには、漁師が多く住んでいた。四極だけでなく、淀川の河口にも大阪湾一円にもかれらがたくさん住んでいて、古代のことばでは「あま」とよばれていた。漢字としては、海人とか白水郎とかと書き、そのグループのことを海人部(あまべ)・海部(あまべ)などと書く。
 その漁の仕方は、網で魚をとらえるだけでなく、海にもぐってモリで魚を突き、貝をとり、また海藻をとるということをする。海藻をとるのは、それを焼いて塩をとるのが主たる目的であった。
 「倭ノ水人、好ク沈没シテ魚ヲ捕フ」
 と、三世紀に編纂された中国の史書『魏志』の「倭人伝」に古代日本人の一つの特徴として書かれている。中国人は決して水にもぐることをしないから、この「沈没して」というあたりに、驚異がこめられているといっていい。

 古代の大阪湾は、漁場として偉大だった。古代から近世にいたるまで、沿岸漁業の漁業技術の蓄積と進歩を生んだ海であった。とくに古代、河内(大阪市の郊外)や大和(奈良県)に所在した宮廷のために、かれらは魚や貝をとり、塩をつくった。このため淡路島をふくめて、宮廷の直轄の漁師ということになっていた。前掲の住吉大社も祭神は海と海底をつかさどる神であり、かれら漁師たちが、自分たちの神であるとして崇敬していた。



「海人(うみんちゅ)」は、沖縄土産のTシャツによく書かれているので、沖縄の言葉だと思っていました(;^_^A
大阪だと「海人(あま)」ですね。
司馬遼太郎氏が書かれたものを読むと、大阪湾も見方がかわってきます:*:・( ̄∀ ̄)・:*:

スーパーで偶然みつけた「魚庭(なにわ)の魚」の小冊子には、魚にまつわるエピソードや地元漁師町で伝えられるおいしい食べ方も載っています。

「魚庭(なにわ)の魚」を美味しく料理する「なにわの料理上手主婦」を目指します(^-^)/

もちろん、「いかなごのくぎ煮」は毎年作っています^^

*イカナゴは、一年の半分を寝ている暑がりの魚、なのだそうですよ。

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